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映画『教皇選挙』
解説のご挨拶
ISO(ライター)
緻密に組み立てられたリアリティと驚異的な迫力で戦争の悲惨さを標榜した『西部戦線異状なし』(2022)により、一躍世界にその名を知らしめたエドワード・ベルガー監督が〈教皇選挙〉を撮る。その静的な印象から前作と比較すると味気ない仕上がりになるのではと心配していたが、まったくの杞憂だった。誕生したのは初っ端から漂う緊張感で観る者の心を掴み、度重なるツイストで翻弄し、掉尾では驚きと開放感を与えてくれる極上のエンターテイメント・ミステリー。俳優陣の見事なアンサンブル、傘を差す枢機卿たちを捉えたシーンを筆頭に冴え渡るショットの連続、緩急をつけながらも緊張を途切れさせない音楽と音響、精緻に造られたシスティーナ礼拝堂のセットや美術等々、賞賛すべき点は枚挙に遑がない。加えてカトリック教会の中でもとりわけ秘匿性・専門性の高い教皇選挙という題材を、これほど明快なドラマとして展開した脚本には驚かされる。ただ知見がなくとも楽しめる内容とはいえ、カトリック教会の慣習や内情、歴史を知っていればより深く理解できる作品であることは間違いない。その一助となることを願い、ここでは映画に登場した要素を11の事項に分けて解説していこう。

-Keyword:001
漁師の指輪

劇中では教皇の死後、枢機卿が集まり、まず身につけていた“漁師の指輪”が破壊される。それはもともと漁師の指輪は印章の役割を果たしていたために、悪用防止のため教皇死後に破壊されていたという伝統が慣習化されたもの。この漁師の指輪を破壊する模様は『天使と悪魔』(2009)でも描かれている。

-Keyword:002
目指したのは陰謀スリラー?

ベルガー監督曰く、本作はアラン・J・パクラ監督の『パララックス・ビュー』(1974)や『大統領の陰謀』(1976)といった政治的な陰謀スリラーにインスピレーションを受けたという。とりわけ『パララックス・ビュー』の全編に漂う緊張感や閉鎖的なトーン、正確な画作りや編集は研究対象として刺激を受けたと語っている。
[参考①参考②]

-Keyword:003
枢機卿の多様化

劇中で保守派筆頭候補のテデスコは「イタリア人の新教皇は40年以上出ていない」と語るが、かつて教皇=イタリア人という時代があった。1522年から23年に在位していたオランダ人のハドリアヌス6世以降、前々教皇であるポーランド出身のヨハネ・パウロ2世が1978年に在位するまで455年の間イタリア人教皇が続いていたのだ。これは枢機卿をイタリア人及び欧州出身が多数を占めていたからだが、それも昔の話。

教皇庁の報道機関である〈The Holy See Press Office〉によれば、現在で枢機卿は世界に252人おり(うちコンクラーベの選挙権を持つのは137人)、欧州出身はうち45%のみで、12%はアフリカ、15%はアジアと、その割合はここ数十年で急速に多様化しつつある。それは信徒も欧米諸国で減少している反面、アジア・アフリカでは増加傾向にある状況を反映していると言えよう。とりわけ教皇フランシスコはバチカンの構造改革を志し、高位聖職者にアフリカ、アジア出身者を多数任命している。カトリック=欧州の宗教という印象を抱いていると劇中の描写に驚くかもしれないが、そこに嘘偽りはなく、次の教皇選挙では初のアフリカ系・アジア系教皇が着座してもおかしくはないのだ。

-Keyword:004
イン・ペクトレ=「秘密裏に」任命された枢機卿

教皇によって秘密裏に任命されていた枢機卿ベニテスの登場により、ローレンスが取り仕切る教皇選挙は出だしから混迷を深めていく。枢機卿が秘密裏に任命されることをイン・ペクトレ(in pectore=ラテン語で「心の中に」といった意味)と呼ぶが、この慣習は実際に存在する。そのような方法を取るのは枢機卿という立場が知られると危険が及ぶという理由から。

イスラム主義勢力タリバンが権力を掌握するアフガニスタンではキリスト教徒が迫害されている状況があるために、アフガニスタンの首都カブールで活動するベニテスの立場が隠されることとなったのだろう。ただ教会法によれば、教皇が死去する前にイン・ペクトレを公表していないと枢機卿である資格がなくなるそうだ。つまり現実にはベニテスは教皇選挙に参加することはできない。原作小説では教会法が改定されたためにベニテスは枢機卿でいられたと説明されているが、映画ではその部分が省かれている。

-Keyword:005
世界最古の家父長制

枢機卿が人種的多様性を見せる反面、ベルガー監督がカトリック教会を「世界最古の家父長制」と述べた通り、男性信徒より女性信徒が多いにも関わらず、そこには根強いジェンダー・パラドックスが存在する。教派によっては女性の聖職者を認めているプロテスタント教会に対し、カトリック教会では未だ女性は聖職者(司祭以上)になれない。かつてはカトリック女性にも助祭職がいたと言われるが、それも9世紀頃まで。神学の歴史的重要人物とされる13世紀の神学者トマス・アクィナスなどにより「女性は男性より劣る」と定義され、常に教会の主導権は男性が握ってきた。

2016年にドイツ人のヴァルター・カスパー枢機卿が「女性もコンクラーベの選挙権を」と訴えるなど体制を疑問視する声は内部からも上がってはいるが、現状は2023年に世界代表司教会議(シノドス)の女性投票権が認められたことに止まっている。劇中では「教皇庁ではもっと女性に活躍してほしい」と語るベリーニに対して「その意見は控えたほうが良い」と仲間の枢機卿が提言するなど、リベラル派でも女性活躍に対しては保守的であることが示される。

-Keyword:006
システィーナ礼拝堂の絵

システィーナ礼拝堂の絵画はルネサンス期の名だたる巨匠たちによって描かれている。なかでも有名なのがミケランジェロが手掛けた天井画「天地創造」と祭壇正面の大壁画「最後の審判」であろう。劇中でもその2つの絵画が大きく映し出されるが、とりわけ印象的なのが爆発の直前、ローレンスが投票する際に「最後の審判」を見つめるシーン。

「最後の審判」は左側に天国へ向かう人々を、右側に地獄へ向かう人々を描いており、ローレンスが視線をやるのは“最後の審判”の始まりを告げるラッパを吹く天使たちの姿。これで審判(選挙結果)が下るに違いない、というローレンスの内心を表しているのだろう。そして結果的に、その直後に起こる爆発がきっかけでベニテスが教皇になるという審判が下される。

-Keyword:007
無名な枢機卿の勝利

教皇選挙は教皇が死去(辞任後)してから15〜20日の間に開催されるが、実際のところ、新たな教皇にどのような人物が相応しいか教皇選挙が始まるまでの段階で話し合われるという。有力候補は各国枢機卿団の食事会にも招かれ、人物評定が行われるので教皇選挙が始まる段階で候補はかなり絞られるのだ。そのなかで秘密裏に任命されたベニテス枢機卿のような無名の人物が教皇に選ばれることはあるのだろうか?答えは「ある」だ。それを体現しているのが現教皇のフランシスコ教皇である。アルゼンチン出身のフランシスコは、メディアが挙げる有力候補リストにもなかった存在であった。

だが選挙前の枢機卿総会で語った「権力争いは止めて、教会の報せを周縁の人々にまで届けるべき」という旨のスピーチが決定打となり教皇に選ばれたという。ベニテスが教皇に選ばれる決定打となったスピーチとの類似性や、ラテン・アメリカ出身という共通点からもベニテスがフランシスコを意識していることは明らかだ。ベニテスは食前に貧しい人々に向けた祈りを捧げたが、この貧困層に対する態度もフランシスコと符合している。
[参考①]

-Keyword:008
教皇名はどう付ける?

新教皇の選出後、首席枢機卿或いは最年長の枢機卿が選出者に選挙結果を受け入れるかを確かめる。受諾すると次に「どんな名前を選びますか?」と尋ねられるので、そこで選出者は教皇名を名乗る。ただちに名前を選ぶ習慣は11世紀からと言われており、それまでは本名が使われていたという。ローレンスが名乗ろうと考えていた「ヨハネ」は、これまで最も名乗られてきた人気の教皇名。直近でその名を名乗ったヨハネ23世(在位:1958年〜1963年)は、冷戦下で米ソ間の仲介に尽力し、エキュメニズム(教会一致)を目指すなど教会を刷新するため行動した人物である。多様な在り方を受け入れ、共に手を取り前進していこうという姿勢はローレンスの思想とも一致していることから、彼はヨハネ23世に繋がりを感じその名を選んだのではなかろうか。

またベニテスが名乗ったインノケンティウスも多く名乗られてきているが、直近はインノケンティウス13世(在位:1721年〜1724年)が最後。ベルガー監督はこの名を「先入観のない純粋さを表す名」と語っている。他の枢機卿と異なり、企みや私欲のない純粋な信仰心を持つベニテスに何より相応しい名前なのだ。またベニテスと同様に、イン・ペクトレで枢機卿に任命された後に教皇になった人物としてインノケンティウス10世(在位:1644年〜1655年)がいる。この名が選ばれた背景にはそのような歴史も関係しているのかもしれない。

-Keyword:009
女性性が生む変化

教皇選挙中、修道女たちは食事の準備など奉仕するだけの黒子として扱われる。だが枢機卿たちがもの言わぬ存在と考えていた修道女の代表であるアグネスは、自らの意思をもって「私たち修道女は目に見えぬ存在ですが神は目と耳を下さった」と述べ、トランブレの策略を暴露する。また子宮を有するインターセックス(※)のベニテスは、自身の身体的特徴のまま教皇として生きることを受け入れる。この二人が仕えるのは男性社会ではなく神なのだから。爆発でシスティーナ礼拝堂に開いた穴から風が吹くように、家父長制に支配されていたカトリック教会に二人の女性性が風穴を開けるのだ。外部から閉ざされていた聖マルタの家から3人の修練女が笑いながら出てくるラストカットがこれからの変化を予感させる。

※インターセックスとは、内・外性器や染色体、ホルモンの状態のうちいずれか、ないしはそれぞれが同時に、解剖学上の「男性/女性」と異なる先天的な状態であることの総称として使われている言葉。本作における描写は、インターセックスの多様性を持って生まれた人々の経験を普遍的に表現することを意図したものではありません。

-Keyword:010
脱走した亀

亀が初登場するのは、聖マルタの家付近の庭園でローレンスとベニテスが意見を交わす夜遅くのこと。そこでローレンスに投票したと明かすベニテスだが、ローレンスは祈りに困難を抱えている自分は教皇に相応しくないと胸の内を語る。以前から信仰の危機にあったローレンスだが、教皇選挙を通して彼は自身がどうすべきかますます混乱していく。だが最終的に、ローレンスはベニテスの秘密を知ってもなお、唯一純真な信仰を持つベニテスこそが教皇に相応しいと納得する。

ラストに登場する脱走した亀は揺らいでいたローレンスの信仰の象徴であり、彼は亀をもといた庭園の噴水に還すことで、迷っていた信仰があるべき姿を取り戻したことを示すのだ。ローレンスを演じたレイフ・ファインズも亀について「精神的な自立のシンボルだと思う」と語っている。また亀はその頭と甲羅から「両性具有」の象徴とされるため、映画の結末を示唆する存在としても受け取ることも可能だ。つまり亀は最初にその姿を見せた時にいた二人、ローレンスとベニテス両者を示す存在なのだろう。(447)

-Keyword:011
〈疑念の枢機卿〉と教皇のチェス盤

ローレンスは首席枢機卿としての説教で「信仰には疑念が必要だ」と語り、彼自身も教会と祈りに疑念を感じ信仰の危機に陥っている〈疑念の枢機卿〉だ。彼は教皇に首席枢機卿の辞任を却下されたと明かしているが、結果的には彼がそんな人物であったからこそ、アデイエミの性的不祥事やトランブレの違法行為をその疑念で暴くことに成功したと言える。だがそもそもアデイエミの性的不祥事発覚のきっかけを作ったのは、その事実をトランブレに吹き込んだ教皇であったし、トランブレ失墜の決定打となる報告書も教皇の部屋に隠されていた。

最終的に新教皇となるベニテスの真実を知りながら、辞任を拒んだのも教皇だ。そこで伏線となるのが冒頭、教皇とチェスをした思い出を振り返りながらベリーニが放った「教皇は常に8手先を読む」という発言である。そこから分かるのは、有力候補の悪事をローレンスが暴きベニテスが新教皇になるまで、すべて(爆発を除く)は教皇の思惑通りに動いていたということ。ローレンスがトランブレの違法行為を示す書類をベリーニに見せるシーンで再びチェス盤が登場するが、それはすべて教皇の読み通りということを示唆している。またベルガー監督はインタビューで「原作を踏まえどのような映画にしたいか」という質問に対し、「方法論としてはチェスゲームのようにしたいと思った」と語っていることから、チェス盤はこの作品を象徴するアイテムとも言えるだろう。

参考書籍
・ローマ教皇選挙とカトリック教会 <入門新書 時事問題解説 no.285>
 著者:横川和夫 出版社:教育社 刊行年:1979年
・コンクラーベの謎 : ヴァチカンの権威に挑む
 著者:小河原 通 出版社:けやき出版 刊行年:2006年